藤島博文のサイン

プロフィール

1941年 徳島県生まれ。
1961年 花鳥画の大家 金島桂華に師事。京都画壇の伝統を学ぶ。
1970年 日春展、1971年日展に初入選。二度の特選受賞後、審査員となる。中国をはじめ、インド、ヨーロッパ各地を取材。
国内における鳥類研究の第一人者と交流し、自身も研究を深める。(白鷺:田中徳太郎氏、丹頂鶴:岩松健夫氏・高橋良治氏、白鳥:吉川繁男氏)
2005年 『唐詩選より 黄鶴之図』が内閣総理大臣官邸の正面玄関に掲げられる。
2008年 日本橋高島屋にて個展。
2009年 天皇陛下御即位二十年奉祝委員を委嘱され、奉祝画『平成鳳凰天来之図』を謹筆。
2013年 文部科学大臣による文化庁「文化芸術立国推進のための懇話会」委員。
文部科学省事業「学校への芸術家等派遣授業」講師。
日本整形外科学会学術集会、建築審査会会長会議にて講演。その他、中国清華大学等での講演多数。
2020年 ブリランテ・アート 飾り皿の原画『世界平和への飛翔図』完成。
2021年 海外版月刊誌『人民日報』にて半年間に渡り「日中文化同盟論」を発表。
2023年 『虹立つ令和大嘗宮』完成。

現在、日展会員。日中発展協会理事。一般社団法人家宝の会主宰。

著書『美感革命』(致知出版) 『日本人の美伝子』(PHP研究所) 冊子『出雲路紀行』


主な活動記録

脇町高校緞帳
徳島県立脇町高等学校体育館 緞帳
かわち学園校舎
茨城県河内町立かわち学園校舎
みんなのみらい保育園・みどりの

徳島県立脇町高等学校は、美馬市を流れる吉野川
をのぞむ自然豊かな環境に位置する進学校で、博文の母校でもあります。
1996年 創立100周年に新設された体育館の緞帳は、博文の寄贈作品『蒼天の譜』を下図として制作されました。日本列島を背景に飛翔する10人の若者たちは、それぞれ画家からのメッセージが込められた持ち物を携えています。

河内町立かわち学園は、2017年に二つの中学校、さらに翌年三つの小学校が統合し、町内唯一の義務教育校として誕生しました。設立当時、博文は教育にかける熱い思いに駆られて奔走し、アドバイザーとして無償で校舎や校章のデザインに携わりました。
2階窓外の優美なアーチ形や、壁面タイルに施された「父母」「師」の大文字には、余分な建設コストをかけることなく、芸術家としての美意識と教育への想いが発揮されています。

2022年3月30日、二日後の開園を待つばかりとなったみんなのみらい保育園に、輝くばかりの虹と二羽の白鳩のレリーフが設置されました。
日本画家自らが描き起こし、陶土に成型を施し、その完成までの一連に携わった美しいファザードをもつ保育園は国内唯一といえるでしょう。
「幼い頃より本物の美と共に歩んでほしい」との博文の願いは、保育園を巣立つ子供たちの未来へのエールでもあります。

博文の思想

藤島博文について一言で語ることはできませんが、ひとつ子供時代の心温まるエピソードをご紹介しましょう。
清流吉野川上流の山深い郷で育った博文少年は、幼いころから生き物や花が大好きで、小学校のころには家の庭に自分専用の花壇をつくり
花々でいっぱいにしていました。
そしてその花を朝早くに摘んで学校に持って行き、皆が登校する前に手作りの竹筒の花瓶に活けて、全教室に飾っていたそうです。
「きれいな花で皆を喜ばせたかったから。」ただそれだけの想いで。
『〝美〟でもって世の中を良くしたい』という博文の思想の根幹は、この頃からすでに芽生えていたといえるでしょう。
その後、18歳で日本画家を志し故郷を離れ、高名な師のもと修行を積み、30代には花鳥画家として独り立ちしますが、
自身の画風を模索する中でも、常にそこには自然や生き物たちに向けられた深くあたたかい眼差しと、
「芸術の力で人々を幸せに・・・」との想いがありました。

そのような彼に最も影響を与えたのが、中華民国初代教育総長(文部大臣)であり、後に北京大学総長を務めた蔡元培(さいげんばい)
の唱えた『美育』論です。

「美を愛することは人類の本能的な要求である。(中略)この美を愛する心をうまく導けば、小局からすれば、心をのびやかに楽しくさせることができ、道徳を高め、身体を養うことができる。大局からすれば、治国平天下の目的が達せられる」

『蔡元培 ―憂国の教育家の生涯― 』中目威博 著

蔡元培は、1900年代初頭のドイツ留学期間中にカントの美学を研鑽し、帰国後、西洋の美学を独立の学問として中国に導入した第一人者です。
彼の唱えた『美育』の思想は、普遍性をもつ美の力が、各個人の精神・道徳心・身心を高め、各家庭、国を治め、やがては天下を安らかに導くという
美をすべての根幹とした哲学でした。
花鳥画家として真摯に美と向き合ってきた藤島博文は、蔡元培の美育論に触れたことで、「すべての人の心には美に感応する『美伝子』が宿っており、その心を育てることこそが自らの使命である」と確信し、その志は『美育美術館構想』へと発展してゆきました。